雲の中

おそろし地蔵尊を後にして、ヅーベット山を目指す。「名前がなぞだから」という理由で、恋人は地図に赤ペンで丸をつけていた。道に迷いながらもなんとかたどり着いたヅーベット山は、特に「ヅ」と書いてあるわけでもなく、ただの山だった。小さな川が流れていた。落ち葉がたくさん土の上に落ちてふかふかしており、チョコレートケーキのようだった。でも緑色の蔦植物に侵食されて、毒々しい砂糖漬けの何かがのっかったチョコレートケーキだった。この山に墜落した小さな飛行機は、きっと轟音と炎をたてて真っ黒い夜の山を赤く染め、山のふもとに住む村人はすごく驚き、恐怖し、興奮したに違いないのだ。落っこちてきたフランス人の飛行機乗りが村に住む少年少女にどれだけの刺激を与えたのか、考えるだけでとても愉快だ。山の奥で燃え盛る飛行機に顔を照らされて心を震わせ、柔らかい産毛を逆立て、壊れたみたいに笑い続けた女の子だってきっといたに違いないのだ。
その後、背振山へ。霧だか雲だか分からない白い空気の中を進むと、服も髪も指も全部、湿り気を帯びる。山頂には祠と巨大レーダー。大きな虫の巣みたいな多面体のレーダーが雲の中に浮かんでいるのである。

時折出来る雲の隙間からまさに下界といった光景が見えて、風が吹いてまた雲の中に入ると辺りは真っ白になる。世界中でもっとも高い場所にいるような気分になる。そのときの私が立っていた場所は「点」としかいいようがなかった。世界で最も高い点の上に立ち、居住していれば確かに人間離れした心持ちになるだろう(この山は霊山として有名で、昔は修験者たちがたくさんいたという)。背筋がひんやりした。